UNMANNED無人駅の芸術祭/大井川2023
自身の器の裏側例えば、「器」には表と裏があるのだろうか?とふと思いを巡せました。
中に物を入れる内側が表で、手が触れる外側は裏なのか?周りからよく見える外側が表で、物が入ってほとんど見えなくなる内側が裏なのか?等と。
私には、他者からなかなか理解されづらい「内在する器」と云うものを胸の辺りの奥にいつもぶら下げて生きています。この内在する器にも外と内があり、私の「思考の目」はその時々で外側にフォーカスされる時もあればそれが内側になる時もあります。しかし、この内在する器自体が裏であり、表とは世間に晒している私の体そのものです。表とは「公」で、裏とは「密かなもの」とでもいう認識が一般的なのでしょうか。私の制作はその密かな裏側を表に引きづり出してくる作業のような気がします。私は実際何も知らないで生きています。私の表である自身の姿を生で見たことがなければ、裏も覗こうにもなかなか厄介で、自身のことであるのに正直理解できない日々です。ただ、毎日のように編む水引によって具現化を試みる私の「内なる器」は他者と交わることでいくらでも形を変えることがこの20年の実験で唯一分かってきたことです。この内在する器が大きくなることや質感がグレードアップすることよりも日々形を変容させることのほうがはるかに豊かだという事実です。そしてその変容の大概は他者によってもたらされます。
今回展示させていただいた中屋邸はある意味中屋さんの器の裏側です。公にはしてこなかった領域です。そこに私の器が触れます。そのことで起こりうる私の器の形の変化は私にも未知です。そして表なのか裏なのかわからない私の器を通して中屋邸と云う器の裏が公になる時、それを見る人は少し自身の内側についても直視せざる得ないのではないでしょうか。あなたには変容可能な裏の器は存在しますか?