春のいろと素心

文/前田雅代・和歌研究家


白一色の水引で作られた、
人がすっぽり包まれるほどの大きくていびつな繭が
出迎えるように会場の入口のすぐ奥に釣り下がっている。

それを少し迂回するようにして進み、店の一角に陳列された
カオルさんの手になる
何十という陶器の「お道具」の中から、一つを選ぶ。
それを手にして、定められた席に着き、目の前に用意された包みの脇に置く。
皆が揃うと、合図があって、包みを解く。
matohu素コレクションの布地を用いた包みの中から、
丸みを帯びた四角形の蓋物の陶器が現れた。

青ざめたような白地に赤と水色の釉薬が迸っている。
蓋を取り、器の中に入っていた無垢の練り切りに、
用意された香水と色粉を混ぜながら成形する。

まずは香水が四種類、一度ずつ廻る。
香りを嗅ぎ、その瞬間に、練り切りに垂らすか否か、
垂らす量をどれほどにするかを決定する。
選び取る機会は、一度しか与えられない。
つぎに色粉が五色、用意される。
赤・青・緑・黒・臙脂、これらもまた、
どれをどのくらい用いるかは己次第であるが、
いちど練り切りに取ってしまったら、
着色が始まり、元には決して戻らない。

即物的に説明するならば、このような作業なのだが、
つまりそれは、参加者が頭の中に持参した
「ある出来事とその景色」を
香水、色粉、手、道具を使って
一発勝負で練り切りに写し取るということだ。

頭の中に携えたイメージを灯明として、
闇の中の道なき道を行くような手探り感に、
いつしか夢中になって、
練り切りを触り、形を造ってゆく。

練り切りは
展示するものと、自ら食すものと、
基本的に二つ用意するようにとあった。
私は途中まで一つの物として形成してゆき、
しばらくしてから、その一部を小さくちぎり
後者とした。

二つの練り切りが完成すると、
展示するほうを白く波打つ皿に、
自ら食すほうを練り切りが入っていた元の器に入れた。
展示する練り切りに「菓名」をつける。
そのあと、各々が持参した「ある出来事とその景色」と、
練り切り、そして付けた菓名について、
順に語ってゆく。
八人八様の景色が開陳され、
それを皆が共有し、それぞれの脳裏に思い描いてゆくような時間。

私の番となった。
菓名には一首の和歌の一部を挙げたと告げ、
もとの三十一字すべてを、ところどころで一呼吸置くようにして誦した。

「春のいろは 花
とも言はじ 霞
より
こぼれて
にほふ
うぐひすのこゑ」

鎌倉時代初期に作られた藤原良経の和歌である。
春の色=イメージは、古来、花(桜)に代表される。
その伝統美を一度は取り上げておきながら、
「言はじ」と否定する。
続けて、「霞」を取り上げる。
霞もまた春の景物の代表物の一つだ。
ある事物とそれを見る者の間を隔てるように立ちこめる様子を、
霞の「本意」、すなわち、それが最もそれらしいあり方として扱われてきた。
この霞の本意を踏まえながら、「霞」そのものではなく、
そこから「こぼれる」という運動性を加えて展開してゆく。
こぼれてきたのは、「匂ひ」である。
よく知られるように、古語の「匂ひ(匂ふ)」は
現代語のそれと同様の嗅覚的な要素のみならず、
視覚的な要素をも対象とすることばである。
ゆえに、この歌は、
薄紅に煙る花・霞の視覚的な残像と、
嗅覚的な何物かを期待する感覚とを保ちながら、
結句の「鶯の声」を迎える。
ここに至ってさらに、聴覚的な要素が加わるのである…
姿は目に見えないけれども、
視界全体が霞むような景色の
何処からともなく聞こえてくる、
「ほうほけきょう」
という鳴き声……。

前に置かれたことばの生起させた残像を
少しずつ引きずりながら展開し、
最後に一つに溶け合う感覚的世界。
ことばであるからこそ成し得る世界ともいえるだろう。

学生の時、図書館で
偶然手に取った本のページを繰ってゆき、
この歌に出逢ったときの衝撃は、
まるで頭に風穴が開いたようだった。
春の甘美が凝縮された世界を僅か三十一音で表現しおおせている!

私が持参した「ある出来事とその景色」は、
この和歌と出会った時の、書架と書架との間で
本を持ったまま立ち尽くす自身の姿である。
練り切りには、「お道具」を用いて
頭に開いた風穴よろしく穴を穿った。
風穴は数えきれぬ時空と繋がっている。
春の景ならば、
人の数だけ、想像・思い出の数だけ、刹那の数だけ、
数かぎりない春の景が存在する。
そしてそれらは矛盾なく溶け合って存在し、
風穴はそのいずれとも繋がっているのだ。
古典和歌を通して、世界をそのように感じる。
それは私に素心としてある。
そしてそれが、私の「お道具」であると思う。

何の前触れもなく、
前の日、次の日…と起こることは、
さして変わらない「日常」だが、
その「日常」のある一時の出来事を機に、
現在の私を知らなかった過去の私が、
かっきりとこちらに向き、歩み始めていたのである。

説明した後で、ある方が、
「その練り切りを食べることで、
触覚・味覚も加わり、五感が揃いますね」と
声を掛けてくださった。
私はそれを聞いて、
時空を共有した人に、ある和歌が伝わり、
その和歌をも共にできた喜びに、心を震わせた。

後日、このことを思い出して、はっとした。
各々の心から生まれた言葉を共有して和すること、
それこそが、和歌の本質であったと。

ことばを造形し、その一片を口にする。
春らしいスミレの香りのそれは、
和歌に育まれた古典美、己の過去から現在、
そして仮初に時を共有した人々の和する心を含んで、
まことに甘かった。

Aplil 2015

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photographer: Waki Hamatsu
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