この世の中は、絶望や不条理に満ちているだろうか?
文/AYANA ライター・プランナー私たちはなんのために生きているのか。
その答えを、誰の目にも明らかに提示できる人などいない。
結局は、自分自身で納得のできる解を見つけ出していくしかない。
その旅を、孤独を、どれだけ愛おしく思えるか。
だから物語を描け、と彼女は言う。
TAKAGI KAORUは「創作は自分にとって信仰だ」と話す。
その目線はまっすぐで、きびしい。けれど、決して冷たくはない。
創作や表現の内容は器だけにとどまらないが、
様々な顔を持っているようで、彼女が追いかけるものには一寸のブレもない。
だから多くの人が、彼女に惹かれていく。
芸術家やアーティスト、という肩書きがある。
そこに「一般人とは違う」という含みを持たせるならば、
彼らと私たち一般人を隔てるものは一体なんであろうか。
創作に重きを置く価値観か。飛躍的な発想力か。それとも破天荒な独創性だろうか。
一見特別に感じられるそれらのものは、
実は私たちひとりひとりにも備わっている。
謙遜や遠慮をしている場合ではない。
自分の世界を定義することは自分にしかできない。
自分の物語を他者が描いてくれることは決してないのだから。
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『皿と血』は、TAKAGI KAORUと5組の表現者たちによる往復書簡のような形式で出来上がっている。
TAKAGI KAORUから送られる皿。その皿を使って表現者たちは旅に出る。
皿と過ごし、皿に食物を装い、それを自分の糧とした後の「皿の景色」を撮影する。
その姿から、今度はTAKAGI KAORUによる言葉が紡がれる。
言葉は表現者たちに届き、そこからまた創作がはじまる。
この長いやりとりについて、TAKAGI KAORUは「いままでのどんな創作よりも楽しかった」と話す。
そこには彼女自身の変化もあるのだろう。先ほど彼女の追いかけるものにはブレがないと書いたが、
シンプルなひとつのメッセージを繰り返し発し続けている、という意味では決してない。
創作をはじめて20年 − 特にこの10年ほどに関しては、表現の方法も届ける相手も広がりを見せ、
厚みを増している。
今回、彼女が信頼している表現者たちとはいえ、これだけの「他者」を巻き込んでの制作は異例のことである。
他者が介在すればするほど、価値観は複雑になり純度も低くなっていく。
逆に言えば意味合いに幅が生まれ、ひとりでは成し得ない価値を創造することができるわけだが、
それには作り手の器量が大きく影響する。楽しんで作り上げていくステージに、今の彼女が立っているということだ。
もっと言うと、彼女は「限られた人に届ける創造の世界」をあるときに捨てた。意識的に舵を切った。
だからこそ今この『皿と血』があるのだし、
「10年前の自分にはできなかったことを『皿と血』でできていることがうれしい」という彼女の言葉は、
まっすぐにあたたかく響いていく。
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私たちはなにかと正解を求めてしまう。それも、なぜか他者に求めてしまう。
正解や、基準や、評価のようなものを、おぼつかない気持ちや不安とともに求めてしまう。
そのやっかいな性質にはきっと多くの人が気づいていて、だから「自分を大切にしよう」とか「あなたらしくいよう」といった、やわらかく希望に満ちた表現があふれ、 一人歩きをする。しかし、人生はそんなにふんわりと片付けられるようなものではない。ハッピーエンドの映画のようにわかりやすくはいかない。なぜなら、ハッピーは何度あってもかまわないけれど、エンドは人生において一回しかないからだ。そのエンドまで、生き延びていく。そのために物語を描け、とTAKAGI KAORUは言っているのだ。
「この世の中は、絶望や不条理に満ちているだろうか?」
絶望する前に、不条理に沈む前に、物語を描くこと。描くための画材は、その気になればいつだってどこにでもあること。身体を、魂をはって、TAKAGI KAORUはそれを私たちに教えてくれる。